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あの日の決断が無かったら、今の自分には成っていなかったかも知れない事

中学2年生のある日、私は大きな決断をした

この話は、私が中学2年の時にした決断に至るまでの話です。

この決断は、今の私を形成するために必要で、人生を変える程の大きな岐路だった事は確かです。

 

しかも、この決断を今の時代の中学2年生が出来るのか?と考えると、多分難しい様な気もします。

 

では一体私は、当時何に迷いそしてその決断に至ったのでしょうか。

 

 

小学4年生頃から急に、母が私だけを虐待する様になっていた

私には3歳離れた弟がいるのですが、思い出してみると弟は小さい頃からチヤホヤされて育っていたような気もします。

(今は40代後半のオッサンですが、未だにチヤホヤされてる気がします)

 

その傍らで私は時々母に、

「ちょっとこっちに来なさい」

と、別室に呼び出されては、殴る蹴るの暴行をされていた記憶が増えて行きました。

 

この暴行が始まったのがちょうど、父の転勤で団地の様な社宅に移り住んだ頃だったので、多分もしかしたらそれがストレスになって私に暴力を振るう事で解消していたのかな?と、今では思います。

 

小学3年生までも社宅でしたが、集合住宅形式ではない社宅だったので、まだ母の心の安寧が保たれていたのでしょう。

 

とは言え、自分のストレス解消のために自分の子供に暴力を振るって良い訳が無いので、いつか誰かが正義の鉄槌を下してくれるのではないか?と思う日々が続いていた~と思います。

 

そうこうしているうちに小学生生活が終わり中学生に上がろうか?と言う頃、今度は別の県に転勤の話がやって来たのです。

 

 

ド田舎の街で日常的にかつエスカレートしていく

多分この転勤が母にとっても寝耳に水で、日々のストレスに更にストレスが上乗せされて行ったのでしょう。

ちょっと今までなら言っても問題の無かった言葉だった筈なのに、転勤してからはもうすぐ平手打ちが飛んで来る様な状態になって行きました。

 

それは弟がいる前でも、外に買い物に出かけた商店街の中でも発生する様になって来たので、私はいつか殺されるんじゃないか?と言う恐怖と隣り合わせで過ごしていたのです。

 

しかし当時の私はまだ中学1年生。

子供の心が大人に変わろうとしている階段を上っている最中だったので、なかなか大きな決断には踏み切れませんでした。

 

この場合、暴力を受けているのは私だから、警察に母親から暴力を受けています!と言ったら母が捕まってハッピーエンドだろうか?とか、お婆ちゃんの家に家出してお婆ちゃんちの子になればもう叩かれないだろうか?とか。

 

何度も何度も、どんな方法なら自分が助かるのか迷って迷って、でも何も出来なくてまた元の家に帰るしかない日々を送り続けて行きました。

 

 

ある時、テレビで特集されていた番組に釘付けになった

この時代、今の様にネットも無ければ携帯電話も無いので、外からくる情報はテレビを見るか新聞を読むかラジオを聞くか雑誌を買うか?の四択しか無かったと思います。

 

または、誰かの噂話を聞いて~と言うのもありましたが、噂話程信ぴょう性の薄い物は無かったと思います。

 

そんな時代の中、ある日私はたまたま付けていたテレビ番組の中で、ある施設の情報を目にしたのです。

 

それは、児童相談所なるものでした。

 

児童相談所は、家庭内で虐待されていたり、学校生活などで悩みを抱えている子供が集まったり集められたりしている施設で、そこに暮らしている子供もかなり多いのでいつも資金不足~的な内容だったと思います。

 

もうかなり昔の番組なのでうろ覚え状態ですが、この番組を見た事で、私は希望の道標を得たような気分になったのです。

 

実は、当時住んでいた社宅の裏手の高台に、何だかよく分からない建物が建っていたのです。

 

そこに行くにはまず、県道(の様な道)まで出た後少し歩いて、高台に上がるための階段を上って行く方法と、もう少し先の車の上がれる広い上り坂まで行く方法と2通りありました。

 

私はいつも階段で上がる道からその建物の方に行っていたのですが、ある時番組を見た後にその建物に掲げられている看板を見て、ようやくその建物が児童相談所だと言う事に気付いたのです。

 

私の、最終的にどうしても困った時はココに駆け込もうと、でもなるべくそうならない様になりたいと思いながら確認した感じです。

 

しかしその、運命を変える日は意外と早くやって来たのです。

 

 

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その日、たまたま登校拒否をした

もう転校して来て結構な時間も経っていたのにも関わらず、何故か中学2年の頃に急に私を余所者扱いして優位に立とうとする?謎の女子グループが現れました。

 

そのグループからはトイレ掃除の時に個室を掃除しているその上からバケツで水をかけられたり、授業で使うノートを隠されたりするなどの低レベルないじめを受けていましたが、そのいじめが低レベルで自分たちの首を絞める事になるぞ?とアドバイスしたりして、日々ヒラリ~ヒラリとかわしてきたつもりでしたが、その登校拒否をした前日はちょっと何だか心と体が疲弊してしまっていて、学校に行く足がかなり重かった気がしたのです。

 

登校拒否なので、その日一日は補導されない様に注意して過ごしたりしてましたが、帰宅時間頃になってきてようやく、猛烈な恐怖感に襲われ始めました。

 

無断で学校を欠席した事は既に親に連絡が行っている筈なので、家に帰ったりしたら半殺しどころじゃない暴力を受けるに決まっている。

 

その事にようやく私は気付いたのでした。

 

登校拒否をしている時は心が解放されたような気持ちでいっぱいでしたが、夕方になるにつれて徐々に、地獄の門へと続く道を歩いている様な気持ちになって行ったのです。

 

どうしたら?あの暴力から自分を守れるのだろうか。

どうしたら?あの母親の機嫌を損ねずに家に入れるだろうか?

 

いや、そもそも家に帰って良いのだろうか?

などなど・・・・

 

私の頭の中はグルグルして、どうしようもない状態に追い詰められて行ったのです。

 

・・・・・・

そうだ。

 

あの、児童相談所に行って相談しよう!

 

児童、相談、所なんだから、児童(私)が自分で相談に行っても問題無い筈だ!!

 

私はこの決断を胸に、あの児童相談所の扉を開いたのです。

 

 

その時、相談所の所員さんが言った言葉が破られる事は無かった

おずおずと扉を開けると、中から所員さんと思われる女性が話しかけてきてくれた。

 

どうしたの?

何かあったの?

と、話しかけてくれた頃には、私は殆ど泣いていた記憶しか無い。

 

泣きながら、学校でいじめにあったから今日たまたま登校拒否したけどこれを怒って母親に暴力を振るわれるから家に帰るのが怖い・・・・

 

そんな様な事を話した気がします。

 

すると何を思ったか所員さんは、

「じゃあ、お家に連絡するから、電話番号を教えてくれない?」

と言って来たのです。

 

私はその時ちょっとかなりいっぱいいっぱいの状態だったので、母がココに来たりしたら暴力を振るわれてしまうのでは?と思ったのか、なかなか所員さんに電話番号を伝えられませんでした。

 

母が迎えに来たりして、家に帰ったらまた殴る蹴るの暴力を振るわれるから教えない!

と、叫んだ記憶があります。

 

この言葉を聞いた所員さんが、この後重大な言葉を言ってくれたのですが、この言葉はそれ以降二度と破られる事はありませんでした。

 

その言葉と言うのが、

「大丈夫、安心して。お母さんが来て迎えに来ても、今後絶対今までの様な事は二度とされないから、だから電話番号を教えて。」

 

絶対、今までの様な暴力を振るわれる事が無い。

 

その時言われた言葉通りに、その日から母からの暴力はピタりと止まったのです。

 

 

児童相談所に迎えに来た母に、所員の方が母に何らかの圧力または注意をした

と、思うのです。

でないと、あんなに自分のストレスの解消のためだけに暴力を振るっていた人が、ピタリと暴力を振るうのを止める筈がありません。

 

児童相談所を後にして家に帰る途中の道すがらで、私は何度も母に「もうぶたない?」とか「蹴らない?」とか聞いた記憶もあります。

 

その時母が言った「もうしない」と言う言葉も以降守られて行ったので、児童相談所で母が聞いた言葉は相当な重圧になる凄い事だったのだろうか?と思わずにはいられませんでしたが。

 

でも、あの時決断をして児童相談所の扉を開けなかったら・・・・・

 

もしかしたら私は未だに、日々を迷い大きな決断の出来ない人間になっていたかも知れないので、あの日の私には感謝と、栄誉を称えまくったのは言うまでもありません。

 

多分、私の中学2年生の頃の様に、小さい頃から親に虐待を受けて育った子供はたくさん居て、今も虐待を日常的にされている子も多いと思いますが、出来れば今の情報化社会の中でも児童相談所の事を知らない子供に、そう言う駆け込み寺的施設がある事を教えてあげて欲しい・・・・

 

と、日々思います。

 

 

これが、今の私の人生や私自身を作るキッカケになった、ある日の迷いと決断です。