嫌な事から逃れるために、精神(人格)を分割させて廃棄してきたツケが記憶の欠如かも知れない事
昔の事を思い出そうとすると、ある一定年代の記憶が穴空き状態だと言う事に気付く
特に小学4年~中学2年の秋頃までの記憶の何ヶ所かがスポスポ抜けてるんすよ。
小学4~6年生の時の担任の先生の名前と顔が全く思い出せなかったり、印象深いクラスメイト以外の人は思い出せなかったり、中学校の時に行った林間学校でドコに何月頃行ったのか?思い出せなかったり~と、結構記憶が無いのだ。
この、記憶が無い時期に何か嫌な事があって、それでその状況から私の、私たる部分を守ろうとして、色々失ってしまった気がする。
※今回はちょっと重い話です&長いです。
苦手な方はスルーでお願いします。
と言う事で、一体何があると記憶が飛んでしまうのか?
話そうと思う。
小学4年~中学2年まで、母親に虐待されていた
何故、その時期からなのかは分からないが、何故かその時期から急に私に対する風当たりが強くなった。
学校から帰ると母が、
「ちょっとコッチの部屋に来て」
と言うので行ってみると、
いきなりビンタが飛んできた。
結構な衝撃で、私はランドセル背負ったままその部屋の壁まで吹っ飛ばされた。
で、何かよく分からない事を言いながら、今度は脚で蹴られる。
何度も、何度も。
どれ位時間が経ったのか分からないけど、しばらくすると母は気が済んだかのように台所の方へ行った。
こんな風に、突然暴力を振るわれる事はしょっちゅうだった。
因みに、私には弟がいるが弟は逆にチヤホヤされて育ったので、私が虐待されていた事はもしかしたら知らないかも知れない。
弟を可愛がっている傍らで、母は私を虐待し続けた。
ツラすぎて、心が何度も崩壊したかもしれない
多分、何度も私の心は死んだと思う。
でもその度、何度も復活した。
どうも、嫌な事から逃れるために精神を分裂(新しい人格を形成)していた様だ。
最初の頃は2個位だったが、徐々に増えて最終的には7つ位になった。
それは、大人になった今でも7つ位はあるな?と思っている。
この7つ、基本的に入れ替わらない基本の3個の私が居て、これは永久保存版?的な存在らしい。
しかし残りの4つが違って、コレはツラい事嫌な事があると時々入れ替わる。
一つ一つにHP(ヒットポイント)みたいな耐久度が存在していて、その度合いと言う蚊
か数値が目いっぱいになると、廃棄される。
そう、
恐怖と負の感情でいっぱいになったら、捨てるのだ。
その時、その人格に蓄積されていた記憶が一緒に消えてしまう。
その所為で、私の記憶が所どころオカシいのだろう。
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中学生になる前に急に転勤した
そうして、いつの間にか記憶を犠牲にしてきた事に気付かないまま中学生になった。
小学生の頃は東京に住んでいて、1~3年生までが国分寺市、4~6年生が多摩市だった。
国分寺市時代は結構克明に覚えている。
日記を付けていたと言うのもあるが、それ以上に映像が鮮明過ぎて、頭の中の記憶を映像化して見せる装置があったら、かなり鮮明にその時代の風景を映し出せる自信がある位だ。
しかし、多摩市時代は結構抜けてて微妙で。
時々イベントで東京に出かける際に住んでいた多摩市に行ってみたりもするのだが、記憶が曖昧であまり正確に思い出せない自分がいた。
中学生になる時、突然千葉県の銚子市に転勤が決まった。
実は、中学に上がる時埼玉県に引っ越す予定だったのだが~父が埼玉県に建売の一戸建ての抽選会で購入権を当てて、それで引っ越す事になっていたのだが、急に会社から命令が下り、やむなく銚子に行く事になった様だった。
とりあえず2年間限定と言われたらしかったので、2年間だけ銚子に住むことになった。
そうして、急遽転校する事~いや、銚子市の中学校に入学する事になった。
買った家は2年間限定で会社の社宅として貸し出したので、新築の家に住む夢が水の泡となった~と言う話は後に聞いた。
多分、この事も色々ストレスになっていた様なんだが、そのストレスを私に暴力を振るうと言う事で晴らしていた様だった、
この頃になると、使い捨ての人格を物凄い速度で捨て&作りまくっていた様で、どんな暴行を受けたかの記憶すら飛んでいる状況だ。
殴られて、口の中を切って口が血まみれになった事は味の記憶に残っているので、そういう事は日常茶飯事だったのだろう。
で、ある日、犬の散歩をしていたら、家の近所の高台の上に奇妙な建物がある事を発見した。
「むむ?児童相談所?」
運命を切り開く扉
当時、実はちょこちょことイジメに遭っていて~どうも都会から来た人間を羨んで?靴を隠されたりトイレ掃除で個室に入ったら上から水をぶっかけられてずぶ濡れになっていたりした。
ただ、私は相手が喜ぶような反応を示さなかった(既にかなり人格が崩壊していて正しい感情を導き出せなかった)ので、しばらく耐えていればヤツらも止めるだろうと思っていた。
所が、流石に身体の方が学校に拒絶反応を示して、ある日学校に行けそうになくなった。
しかし学校に行く振りをしないと、また色々されると思ってその日は家を出た。
学校には結局足を踏み入れなかった。
公園に行ったり、キャベツ畑を散策したり、中学校の制服を着ていて日中堂々と歩いていられるような場所が少なかったので、非常に困った。
時間が過ぎて、日が暮れ始めた頃、私は最大の難関がある事を思い出した。
多分こうやって学校をさぼった事を、学校から電話が来て知っているかも知れないと。
家に帰ったら、今度こそ殺されるかも知れないと、その時やっと思ったのだ。
そう言えば・・・・
この時、実は児童相談所が、私の様に虐待されたり親に育てるのを拒否された子供が来るところ~と言う認識をしていた。
何かの番組でやっていて、それで知った感じだった。
家に帰って殺される位なら、児童相談所に行って事情を説明した方がイイと思い、私は自ら児童相談所のドアを開いた。
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革命
私が入ると、相談員さんがやってきて事情を聞いてきた。
私はもういっぱいいっぱいだったので、号泣状態だったと思う。
色々あって学校に行かなかった事と、家ではしょっちゅう殴られたりしている事、このまま家に帰ったら殺されるかも知れない~と、訴えた。
すると、家の電話番号を教えてくれと言って来たのだが、母を呼ばれると思って中々教えられなかったが、もう二度と恐ろしいことは起きないから大丈夫と言ってくれて、それでやっと家の電話番号を教えた。
しばらくすると母がやって来た。
母は、2人ほどの相談員に連れられて別室に入って行った。
そこで、母が相談員さんに何を言われたかは分からないが、その日以来ピタっと虐待は無くなった。
児童相談所から家に帰る時は、この後どうなるのか?恐怖で打ち震えたが、帰宅後は夕飯を食べて風呂に入って寝ると言う、特に何もない状態だった。
それ以来、虐待はされていない。
虐待されていた期間の記憶が曖昧だ
これは、気持ちに余裕が出来て昔の事をじっくりと思い出す~言わば記憶の並列化をしている時に気付いた感じだ。
どうも、小学校の後半と中学2年までの記憶のすり合わせの様なものが上手く行かない。
昔の事を話されても全く記憶に無かったり、おぼろげな感覚で居た。
と言う事から、どうやら嫌な事から逃れるために精神やら人格とやらを分割してドンドン廃棄して行ったツケらしい。
自分と言う個を完全に殺さないための策だったとしても、代償はかなり大きかった。
そうして、記憶は未だに欠如したままだ。
当の虐待した人は、虐待した事を覚えていない事実
いじめでもそうなんですがね、いじめた方はやった事を結構忘れるんですよ。
あんなに酷いことやったのに忘れるの?ってくらい忘れていた。
前に、母に過去の悪行を問い詰める機会があったのだが、この当時の期間にやった虐待の事を明確には覚えていなかった。
その事実を知る前から、実は母に触られると身体にじんましんが出る体質になっていた。
なので、事実を知って憤りを感じたりもしたけれど、以降特に深くかかわろうと言う気にならなかった。
大人になってからも何度か廃棄している
気がする。
時々記憶の欠如がみつかる。
話していて、
「あの時お前こー言ったよな?」
的な事を振られたのだが、そんな事言っていないと言って話を終わらせた。
結構こう言う欠如が多い。
なので、大人になってからもキツい人生を歩んでいる・・・・・のかも知れない。
多分、私の様な精神構造をしている人は多い?
かも知れない。
特に虐待などの行為を繰り返し受けた経験のある人は、この症状になりやすい。
気がする。
今回は、長々と重苦しい身の上話を読んで頂き、恐悦至極だ。
次回はもう少し楽しい話にするので、また来てくだされ。
と言う事で、また。
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