ほい!
今回は前回の続き~の様で続いていない、しかし!私のセキララ人生を暴露する続きと言う点では続きなのかも知れません。
まずは、生まれた所から~語りましょう。
今回もアイコンは、あの猫です。
東京都世田谷区生まれ~某小さい産婦人科で出産したものの、未熟児の設備が無いため救急車で国立小児病院に搬送される~
搬送されました。
私はいわゆる~団塊ジュニアの世代なので、生まれは昭和40年代後半です。
当時はまだ、未熟児に対する医療設備がどこの産婦人科にもあると言う訳では無かったので、私の場合もかなりその産婦人科の先生が慌てて!救急車を呼んだそうです。
因みに、私が生まれた時の体重が1900gだったそうなんですが、最近はこれ位の体重の子も時々生まれているので珍しくない体重だと思いますが、当時は大きく産むのが当たり前だったので、かなり小さい方だった!様です。
(しかし現在は成長し過ぎ?て身長170cmで足のサイズも25.5cmとかって、可愛い服も靴も履けない人生を謳歌してきましたよっと)
小児病院では小一カ月ほど保育器の中で生活していたので~産後直後の母親との蜜月的暮らしが無かった~事が、その後の私のダークサイド面生成の鍵になって行ったのかどうかは分かりませんが、母親とはずっとソリが合わない人生を送って来た事は確かです。
弟が生まれて~私への態度が一転!弟だけチヤホヤ育てて姉は差別と虐待の日々を~
送っていましたよ。
とにかく、特にそんなに怒られる事もしていない筈なのに、別室に連れていかれて殴る蹴るの暴行とかしょっちゅうでした。
まだ、幼稚園くらいの頃はそうでも無かったんですが、私が小学校に上がってからはかなりひどくなって、毎日の日課?これをしないと一日が終わらないの?って位殴られていましたね~母親に。
父は某生命保険の支部長とかやるクラスの人だったんですが、小学1~3年生の時に住んでいた家がまさに理想的で、1~2階に会社の事務所が入っていて、3階が住まい!と言う環境だったので、朝もゆっくり~帰りは早い!笑と言う感じで良かったです。
その頃も虐待はありましたが~小学4~6年生の頃よりはずっとマシだった気がします。
中学校に上がってから、更に虐待がエスカレート!気に食わない事があると路上でも平手打ちをかます程に!
なっていました。
何か気に食わない事?があったりすると、買い物帰りでも急に路上で平手打ちしてきたり!して、何かちょっとヤバい?と思っていたのです。
実は、小学校は2校、中学校も2校通っているんですが全て父親の転勤が原因で。
小学校はまだ東京都内の学校だったので良かったんですが、中学校1~2年を過ごしたのは、千葉県の銚子市でした。
銚子の暮らしはそれなりに楽しくて、海が近くて夏は殆ど海水浴?な日々でしたし、魚介類が安く手に入るので、東京暮らしだった頃では考えられない様な豪華な食生活を送っていたと思います。
住んでいた社宅も、それまでは会社の3階~とか団地の様な~だったんですが、広い庭の付いた二階建ての一戸建ての社宅だったので、父親の立ち位置はそれなりに高かった様です。
家の近所には、銚子商業高校があって、当時高校野球はそれなりに強かったので、夏の甲子園を目指す時期ともなると応援の音や野球の練習の音が聞こえて来てワクワクした思い出があります。
(実は私は高校野球好き!毎年春と夏になると、甲子園にやってくるまたは来た学校のチェックに余念がありません!)
そして、更に、銚子商業の近くには、私のその後の人生の転換点となる、ある施設があったのです。
ある日、私は日頃の虐待に耐えかねて、自分から児童相談所に避難しました!
そう、銚子商業の近くにある施設と言うのが、その児童相談所だったのです。
前々からずっと気になっていて、そのうちココが、親に虐待されていた子供が避難している施設だと知ったのです。
私も・・・・よく殴られているし、いつか駆け込んでやろう!と思っていたんですが、その日が来てしまいました。
私は、何をしても気に入らない母親の気晴らしで殴られる生活がもう耐えられなくなり、児童相談所に駆け込みました。
相談所の先生に親が自分の事を叩いてばかりいる事を話すと、家に電話してお母さんに迎えに来てもらいましょう~と言うので、呼ばないで欲しい!と言った記憶があります。
呼んだらまた、もっとたくさん殴られる!と言う恐怖の方が強かったのです。
でも、呼ばないと、これからもずっとまた殴ったりして来るかもしれないから、先生が注意してあげると言うので、それで渋々電話番号を教えましたね。
児童相談所で注意されてから~殴られなくなりました
はい。
本当!
凄いです!!流石!児童相談所!☆彡
私もそれ以降~児童相談所に駆け込む事は無くなりました~が、時々家の近くを相談所の職員っぽい人が来ていたので、その後の経過?をチェックしていたのかなぁ~?とは思っています。
が、とりあえず、自分で自分の人生の扉を最初に開けた瞬間だった?!事は間違い無かった!と思います。
あの時、児童相談所のドアを開けて中に入らなかったら、もっと違った人生を送っていた事でしょう。
しかし、母親との間に出来た溝は一生埋まる事は無い~
ですね。
今も埋まっては居ません。
それに、当時の虐待の話をすると、忘れた~と言って逃げるのです。
謝罪はありません。
自分は正しいことをした!と、当の本人は思っているので、何故謝る必要がある?のか分からない様なのです。
あの、苦しくてつらい虐待されていた時代の私に対する謝罪は、今まで一切ありません。
なので、母親にはずっと心を閉ざしたまま大人になりましたが、今後も心を開こうだなんて、これっぽっちも思いません。
世間一般の、普通は母の日に何かした~プレゼントをした話とかたくさん聞いたりしましたが、いや、それ、絶対ありえない話なので~私の場合は。
と言う感じです。
とりあえず、中学2年まででダークサイド子供時代の其の一を終わります。
次回、ダークサイドの後半をお送りします!
って、長いなー?オイ・・・・・
( ̄v ̄;)
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